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026.TRPGにおける「神」の存在
- 昨今のファンタジーTRPGでは、背景となる世界の要素の一つとして、神の存在が規定されている物が大半です。
- そして、その神の設定の多くは唯一神ではなく、多神教であるとされている事が多いようです。
- ですが、ここで現代人である我々にはちょっとおかしいな?と思うような背景設定があります。
- それは、多くの神があり、それぞれに多くの信徒を持っている割には、宗教同士の深刻な対立という要素が欠けている、という部分です。
- 現実世界の歴史を振り返ると、宗教が違うという事はすなわち相手は邪教徒であるという事です。
- そして、その考えから全人類の幸福を求める者(宗教者・信徒)同士が血で血を洗う深刻な対立状態を長く続けてきた、という事は悲しくも歴然とした事実なのです。
- では、何故、ファンタジーTRPGでは信仰する神同士で深刻な対立が起きないのでしょうか?
- 私が思うに、それは神は絶対神ではなく、人格神である、という理由からではないか、と思います。
- TRPGにおける神の扱いのほとんどは、中世ヨーロッパ大陸で一般的であった絶対神(全知全能の神)とは異なり、むしろ古代ギリシア・ローマの神話である人格神(人間に近い感情を持った「強力な」「人間以上の」存在)である為ではないか、と思うのです。
- なにせ、絶対神の存在する世界は基本的に完璧な物であり、神の関与しない超常現象は(裏の存在である悪魔の存在なしには)存在し得ないのです。
- そして、全ては神の望んだ事ですから、神は余程の事がない限りは現世に奇蹟を起こす事はありません。
- なぜなら、神はもとから奇蹟が必要になるような状況を「起こさない」事ができる存在なのですから。
- これは、魔法や怪物の実在するファンタジー世界とは相容れない考え方なんですね。
- しかし、神が人格神である場合はこれと異なります。
- 神といえどもどうにもならない事は存在しますし、間違いも起こします。
- 元は神と呼ばれたものも、過ちを犯して怪物と呼ばれる事もありえます。
- また、1人の神が絶対ではありませんから、神は競って奇蹟を起こし、自分の存在をアピールする必要性が生じるのです。
- こちらの考え方だと、実にTRPGに向いている設定なんですね。
- 絶対神の神官とは「生き方」の問題になるのに対して、人格神の神官はあくまで「神の奇蹟を起こせる」あるいは「神に奇蹟を起こして貰える」という存在なのですから。
- それを肯定するかのように、多くのTRPGでは一つの神話によって誕生した多神教という形で神の存在が定義されています。
- これは、人格神的な多神教の典型的な例と言えます。
- そういった事を考えると、TRPGでは多くの神が並び立っているにも関わらず、深刻な対立が起きない、というのもうなづけるかも知れませんね。
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